「行きたいけど行けない」理由とは 経験者による「不登校30年目の結論」

「私の不登校は吃音のようなものだった」。小学2年生で学校へ「行きたいのに、行けない」状態になったという喜久井伸哉さん。みずからの体験を吃音になぞらえる喜久井さんは「学校へ行けないとはどういうことか」を探求する。(新連載「『不登校』30年目の結論」第2回・写真は喜久井伸哉さん)

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 過去数十年、「不登校」は精神科医や教育者によって、とくに子どもの「心の問題」として語られてきた。しかし、私自身の体験を思い返してみると、むしろ「体の問題」だったと思う。みずからの意志で「行かない」ことを選んだ子どもであれば、自身の状態を説明しやすい。「私は学校が合わなかったから、自宅学習することを選んだ」などというかたちで、「行かない」行為を明言することができる。しかし、私に起きていたのは「行きたいけど、行けない」状態だった。みずからの意志ではない状態を、みずからの行為であるかのように語っても、適切な説明にはならない。

 本連載で私は「行きたいけど、行けない」状態の詳細を「体」にフォーカスして説明していく。そのために、まず吃音(きつおん)を参照する。「不登校」の体験を伝えるために、吃音を引き合いに出す人は、私以外に聞いたことがない。おそらく、本稿の「不登校」の記述は、誰も到達したことのない境地に至っている。

 私が「行けない」状態になったとき、体罰やいじめのような外的な「原因」はなかった。また、病気や障害もなかった。それでも、「行きたい」意志が、「行く」行為を発生させられなかった。「原因」不明の、「意志と行為の不一致」が起きていた。特徴的なのは、「登校」を意図する行為だけができなかったことだ。登校する日の朝であっても、顔を洗ったり、着替えたりすることはできた。登校のために「玄関に行く」行為ができなくても、「トイレに行く」行為はできたため、失禁することはなかった。この状態を、どのように説明したらよいか。

吃音との類似性

 「意志と行為の不一致」という点で、似た例が吃音だ。吃音は「どもり」とも言われるもので、発声が思い通りにできなくなることだ。「話したい」という意志があっても、身体(咽喉の動き)がうまく機能しないため、「話せない」結果になる。そのため「話したいけど、話せない」状態を引き起こす。

【連載】『不登校』30年目の結論
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